フードコーディネーター取材特派員NEWS

岩手県陸前高田市ヤマニ醤油株式会社再興

東北

2014年6月6日

   
 2011年3月11日、あの東日本大震災から3年半が過ぎ、世間の記憶は少しずつ薄れているよう感じられます。しかし、いまだに狭い仮設住宅での生活を余儀なくされている人たちが大勢います。また、津波の後の瓦礫は取り除かれたものの新しい街の設計はようやくめどが立ったばかりでしょうか。すでに廃業した地元の企業や、住み慣れた土地を離れた人も少なくありません。そんな中、工場や仕込み蔵、自宅のすべてを失いながらも震災後三日目にして再建を目指して動き始めた醤油メーカーがあります。明治元年創業、陸前高田市ヤマニ醤油株式会社です。
 震災の翌々日から、ヤマニ醤油株式会社の社長・新沼茂幸氏と妻の幸子さんは、危険をも顧みず、崩れた事務所からヤマニ醤油の製法の記された覚書きと顧客台帳を探し出しました。それと、後に奇跡的に壊れずに見つかった瓶詰の醤油と濃縮つゆ、これらがヤマニ醤油の味を再現し会社を再建させるための足掛かりとなりました。
 3月14日、避難所に衛星電話が繋がりました。一人2分までの取り決めで外部に安否を知らせるための“命の電話”です。新沼社長は真っ先に、県内最大手の醤油蔵・佐々長醸造株式会社長・佐々木博氏に電話をします。「ヤマニ醤油に蔵を貸してください」と。知人に自分たちの安否を知らせることよりもヤマニ醤油をもう一度作りたい、長年贔屓にしてくれたお得意様にもう一度あの懐かしい味を届けたいという思いが勝ったのです。佐々木社長はすぐに快諾しました。被災した醤油メーカーから援助の要請があれば引き受けようと決めていたのだそうです。そして、最初の連絡がヤマニ醤油からでした。この時、この沿岸の小さな醤油メーカーは、それまでとは業態を大きく変えながらも再興に向けて第一歩を踏み出したのです。

 初めに、現在の醤油業界の状況と震災前のヤマニ醤油について少しご説明いたします。
 醤油の銘柄は、海外では醤油の代名詞として使われることも多いキッコーマンを筆頭にヤマサやヒゲタなどの大手5社が知られています。関東圏の小売店ではこの大手の商品が棚を独占していることも珍しくありません。しかし全国的には、小規模ながらも地元に支持され業績を積み重ねてきた醤油メーカーが多いのです。実際のところ、大手5社の年間生産量は全体の50%ほどというデータがあります。つまり、残りの50%は地方の小~中規模のメーカーによって生産されているのです。
 岩手県では震災前、19社が岩手県味噌醤油工業協同組合に登録しており、社長同士の面識や交流もありました。そして陸前高田市では、ヤマニ醤油、八木澤商店、和泉屋本店、小島麹店の4社が、人口2万4千の町を、それぞれの御贔屓を守りながら上手に棲み分け共存していました。ヤマニ醤油のお得意様は地元を中心に6千軒ほど、社長夫妻を含めて10人の社員で年間1億2千万円の売り上げを誇っていました。販売形態は訪問販売いわゆる御用聞き販売が主で、150年前の創業当時から脈々と受け継がれてきたものです。得意先の家族構成や食生活を把握し、そろそろ補充の頃合いを見てタイミングよく顔を出す、正に長年培われてきた売り手と買い手双方の信頼関係を基に成り立つ商売です。それと、90年代からは電話やFAXでの全国販売いわゆる通信販売も増えていました。一方でヤマニ醤油は、大型小売店への卸販売はしませんでした。値引き販売も決してしませんでした。生産量が限られていることもありましたが、お得意様の声を直接聞くことと、常に一定の価格で販売することが長期的な信頼と安心に繋がると考えたからです。

 それでは、新しいヤマニ醤油株式会社は何が変わったのでしょうか。変革の大きな柱は三つあります。
 一つ目はヤマニ醤油をどこで製造するかでした。喪失した蔵を同じ場所に建てることは資金面からも将来の展望からも得策ではないと判断しました。そこでヤマニ醤油は、花巻市の佐々長醸造とライセンス契約を結びます。つまり、ヤマニ醤油は佐々長醸造にヤマニ製品の製造及び販売を委託し売り上げに応じてライセンス料を受け取る、という仕組みです。醤油業界では前例のない斬新なアイディアです。しかしそれには、乗り越えなければならない大きな課題がありました。以前のヤマニ醤油の味を再現できるか否かです。
 醤油は地域によりメーカーにより味に違いがあります。岩手県は北海道に次ぐ広さを持つ県です。北部は南部藩、南部は伊達藩だった歴史からも異なる食文化を持ちます。内陸の花巻市と海沿いの陸前高田市の醤油の味も同じではありません。因みに、ヤマニの醤油はどちらかというと甘味のある優しい味が特徴です。また一方で、原料が同じでも配合や工程によって醤油に違いが出ます。醤油の原料は大豆、小麦、塩を基本に、良質の水と種麹(オリゼ菌、ソーヤ菌)などです。どの原料を選びどのくらいの配合にするかは各メーカーの企業秘密です。諸味の熟成期間、攪拌の仕方、温度管理にもそれぞれの基準があり門外不出のものです。それに加え、蔵にはそれぞれ独自の微生物が自生していて諸味に働きかけ味を変えるともいわれます。つまり、同じ原料や作り方でも同じ醤油の味はできない、ということです。いわんや、和食の基本調味料である味噌や醤油にはそれぞれの家庭の馴染みの味と銘柄があり、容易く他には替えられないものでしょう。
 この難問に対する新沼社長の結論は明確でした。「以前のヤマニ醤油と全く同じものではなくても、以前のヤマニ醤油に限りなく近い味、長年のお得意様の舌がこれならと認めてくれるヤマニの味ができれば出荷する」というものでした。そして、瓦礫の中から見つけ出した秘伝の製法を佐々長醸造に伝えたのです。加えて、元ヤマニ醤油の職人鈴木氏を佐々長醸造に正社員として雇用してもらいます。佐々長醸造でのヤマニ醤油の味作りに携わるためです。壊れずに見つかった瓶詰の醤油と濃縮つゆも新しいヤマニの味を決める基準として役立ちました。


 二つ目の変革の柱は、ヤマニ醤油株式会社の組織体制です。震災から3ヶ月後、ヤマニ醤油は本社事務所兼住居を盛岡に移しました。盛岡は佐々長醸造のある花巻市や東京へのアクセスも良く、関係機関が集中していることも決め手になりました。10人で切り盛りしていた会社は社長夫妻2人だけになりました。職人の鈴木氏は佐々長醸造に雇用され、御用聞き担当だったもう1人の鈴木氏は自ら望んでヤマニ醤油高田営業所を立ち上げ、地元の正規代理店となりました。元の従業員もそこで働くことになりました。瓦礫の中から見つけ出された顧客台帳はここで再び活かされています。盛岡地区は新沼社長が御用聞き販売を担当し、新規の小売店も増えました。幸子夫人は年中無休の24時間体制で受注や問い合わせの業務を受け持つ傍ら、日中は佐々長醸造に出向き通販業務の指導もこなします。2人ともどれほど忙しいことでしょう。しかし、何時でも何事にも誠心誠意、仕事に対する2人の真摯な姿勢は変わることはありません。そして、同じ目標を持ちしっかりと支えあう素晴らしいコンビです。


 三つ目の変革は、県外の企業や大手の企業とのコラボレーションです。県内の限られた地域が主な対象だったヤマニ醤油ですが、被災をきっかけに多くの企業からコラボレーションのオファーがありました。初めに洋菓子のヒロタから醤油風味の冷凍シュークリーム『しょうゆ天使のシューアイス』が商品化され話題となり、今年は鎌倉山ラスクから『しょうゆ天使のラスク』が発売されました。『しょうゆ天使』とは故やなせたかし氏が震災後にヤマニ醤油を支援するため無償で描いてくれたイラストです。新沼社長はこのイラストを『しょうゆ天使』と名付け、新しく作られた醤油のラベルにしました。前述の菓子の他、即席麺も近々発売の予定です。その他、ワタミインターナショナルには香港で展開する料理店『和亭』のすき焼き用の醤油を提供しています。全国にそして海外に視野を広げているのです。今後はホームページからの情報発信を強化し、インターネットでの受注も始めたいと考えています。

   
   こうして震災で全てを失った醤油会社は2011年11月21日、正式に事業を再開しました。ここまで成し遂げ得た最大の要因は、新沼社長夫妻の信念と努力であることに間違いはありません。何事もポジティブに考え、慣習に囚われず柔軟です。昨年、社長は多忙な中6か月間に亘り、仙台の東北大学大学院の〝地域イノベーションプロデューサー塾″ に入塾し、自らの独創的なビジネスプランを具体化すべく更に研究を重ねました。常に学び続けているのです。
 そして次に不可欠だったのが多くの人々のサポートです。佐々長醸造を初めとする提携企業や支援企業、元の従業員とヤマニ醤油を支持し続けるお得意様等々。事業再開から2年半、現時点までの生産も販売も順調のようです。震災前、醤油とその加工品は全部で10種類でしたが、今は『しょうゆ天使』を始め『上級醤油』などの醤油、『ほんつゆ』『白だし』などの濃縮つゆを合わせて6種類を出荷するまでになりました。
 ヤマニ醤油株式会社再起のストーリーは、たとえ積み重ねてきた実績が無になり絶望の淵に立たされても、強いモチベーションと斬新なアイディアを持ち、人の繋がりがもたらすチャンスを活かすことが達成の可能性を高めるということを示しています。筆者もご縁があり『白だし』のメニュー作りと試食販売のお手伝いをいたしました。これからも、ヤマニ醤油の一ファンとして発展を応援し続けたいと思います。