フードコーディネーター取材特派員NEWS

和ごころを“八女茶”で感じ、真ごころを育てる玉露の里

九州・沖縄

2013年12月12日

「まぁ、お茶でも一服」。
 
一杯のお茶から人と人とがつながっていく。
一杯のお茶で心がやさしくほぐれていく。
お茶には昔からそんな不思議な魅力があります。

    世界無形文化遺産に「和食」が2013年12月4日に 登録決定し、世界から日本の食文化に注目が集まると同時に、日本のお茶への関心も高まっています。
そこで、お茶の名産地、九州の福岡県八女市にある “八女茶”の名づけ親「許斐本家 このみ園」様に取材協力していただきました。

    移りゆく時代とともに名産品となった“八女茶”の歴史と今を伝えたいと思います。

 

◆福岡県八女市と“八女茶”の歴史
    わが国最古の歴史書『日本書紀』に“この地に女神あり、その名を八女津媛(やめつひめ)と云い、常に山中にあり”という一節があり、これが「八女」という地名の由来です。
 八女市には国指定史跡の岩戸山古墳をはじめ多くの古墳群が広がり、植輪や石人・石馬など重要な遺物が数多く出土しています。更に八女市福島地区は江戸時代には久留米藩最大級の商家町(八女地方の物産集積地)として栄え、政治・経済・文化・交通の中心となった歴史があります。

    日本茶の栽培の始まりは、建久2年(1191年)茶祖 栄西禅師が、肥前と筑前(現在の佐賀県神埼市脊振町-福岡県福岡市早良区)の境界の背振山に宋から持ち帰った茶の種を蒔いたのが始まりとされています。その後、応永13年(1406年)周瑞禅師が筑後国上妻郡鹿子尾村(現在の福岡県八女郡黒木町笠原)に霊巖寺を建立、明から持ち帰った茶の種を地元の庄屋 松尾太郎五郎久家に与え、釜炒り茶の製法を伝授したのが“八女のお茶”の起源とされています。

 八女市福島地区は慶長6年(1601年)、柳河城に入城し筑後国主となった田中吉政が福島城を支城として整備しました。城を囲む三重の堀の中堀と外堀の間、南半分には往還道を通し城下町が作られました。元和6年(1620年)、久留米藩有馬氏が当地治めるようになり、福島城は廃城になりましたが城下の商人町は残りました。地割、堀割跡の水路、屈曲した道路、枡形など当時の名残は、今でも見ることができます。
    その後福島地区は八女地方の交通の要衛として、また物資 の集散地として発展しました。江戸中期 社会情勢が安定し てくると、米の余剰益から伝統工芸を興し、町人文化が栄え ました。明治期になると更に、「和紙」「茶」「櫨蝋」「提灯」 「仏壇」「石工品」「林業」などが発展、旧往還道沿いには 白壁土蔵の町家が立ち並びました。 
    現在もなお、八女市福島地区は九州一の伝統工芸の集積 と生産量を誇り、歴史的に貴重な古い町並みは、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されております。

    「許斐本家 このみ園」は 江戸宝永年間(1704年~1710年)久留米藩境の山間部 北矢部(現八女市矢部村)出身の許斐甚四郎が、久留米藩上妻郡福島町 (現在の八女市本町福島地区)に、山産物商を創業することにはじまります。取り扱う山産物の採れる村名を屋号とし、「矢部屋(やべや)」と名乗りました。
その後 幕末 慶応元年(1865年)に、矢部屋八代 寅五郎(茶専門問屋 初代)が、この地方で生産されるお茶の優れた品質に着目し、当時はまだ珍しかった商いとして、茶に特化した専門問屋を現在地に開業します。
    また安政3年(1856年)に日本茶輸出貿易の先駆けとして長崎の大浦慶が英国人貿易商ウィリアムオールトとお茶の直接取引を開始して以来、日本茶の需要は海外で大いに求められるようにもなっていました。寅五郎は時代に求められ日本茶貿易の道を歩み始めました。

    明治時代に入り、輸出を急ぐあまり、乾燥工程をきちんと 経ずに送られていた日本茶は輸入国では大きな問題となって いました。明治16年(1883年)、ついにアメリカは贋茶(粗悪茶輸入)禁止条例を出し、対米緑茶輸出は良品不良品に関わらず一時的にストップし、品質の伴っていない多くの日本茶は輸出不振となりました。外需頼みの日本茶業界は苦境に立たされ、当地方の緑茶輸出も順次脱落していきました。当時の八女の記録には「帝国の重要物産をして最も悲惨の城に置かれつつありと雖もこの苦戦は大に当業者の興奮剤となり即ち尺虫の屈める状態に異ならず」とあり、緑茶輸出の苦しい状況が記されております。
九代久吉は当地方茶業の行末を案じておりました。そこで、久吉は方針を転換し、国内での販売拡大目指します。技術的な見地から、この地方の気候風土に玉露の生産が適していることを見出し、より高品質な玉露の生産の為科学的な検証を行い、玉露の品質向上を進めました。また流通面では、当時から京都の特産品であった「宇治茶」を研究し、当地方のお茶の特産化を進めるべく模索しておりました。
    この頃、八女地方のお茶は総じて「筑後茶」と呼ばれ、「星野茶」「笹原茶」「黒木茶」等々細かい地域名でも呼ばれておりました。また大半が旧来の釜炒り茶ゆえ、「宇治茶」や「静岡茶」に品質面で大きく差を開けられていました。久吉は産地名を“八女茶”として一つにし、高品質な青製緑茶(現在の蒸製緑茶)の量産化に尽力します。しかし、特産品として地域をまとめ、品質の向上を計ることは難しく、その計画は困難を極めました。久吉の代では特産化の夢は叶わず、その意思は息子の十代 久吉(二代目)に引き継がれました。

    契機は大正14年(1925年)に訪れます。その年、福島町で行われた物産共進会、茶の品評会の部で、質・量とも対外的に通用することを確信できた当地方の茶業関係者たちに、二代目久吉(当時八女郡茶業組合理事長)は会合の席で、“八女茶”の名称と特産化を提案、それは満場一致で可決されたのです。久吉親子の悲願が達成されました。その後、八女地区の全茶業関係者が一丸となり、さらなる茶の品質向上と生産量の拡大が図られていきました。

    昭和に入り(1926年~)、十一代 許斐正次(三代目久吉)は朝鮮、台湾、満州、南洋(パラオ諸島)、アメリカなどの日本人街へ緑茶を供給するため“八女茶”を輸出していました。当時日本は欧米諸国の帝国主義に対抗するため、自国領土より強固に守れる植民地政策を取っており、多くの日本人が外地と呼ばれる植民地で暮らしていたのです。現在の近畿圏以西を指す西日本地区とは別で、当時福岡県を含む北部九州は満州、朝鮮半島、台湾との近い距離関係から西日本と呼ばれており、八女は西日本を代表する茶産地となっていました。しかし、平安時代から連綿と続いてきた日本的な美意識は、昭和15年頃から一気に軍国主義となり、茶業界においても戦中になる頃には配給制度が敷かれてきます。

    太平洋戦争後は、家業も戦火の混乱で疲弊し、業務の縮小を迫られました。また戦後まもなく政次(三代目久吉)が早世、三代目には子が無かった為、次男の二郎(四代目久吉)が当主となりました。しかし二郎は、三代目久吉の妻 静子と、今ある許斐本家を卸部と小売部の二つに分け、それぞれ東と西に店を構え商売することに決めました。その当時としては最良の選択だったのかもしれませんが、結果としては同じ商売を隣同士でやっていたということはそれぞれが高めあうものとはなりませんでした。それでも二郎は八女茶商組合の理事として、地域茶業の復興を図り、流通網の拡大や近代化(機械化や茶市場の確立)に向け努力しました。戦前、八女茶は相対取引だったのですが、戦後昭和40年に入り農協に茶の入札市場が作られると、茶商たちが相場を決め取引が確定するようになります。八女茶にも近代商法が取り入れられ始めたのです。

 

◆「許斐本家 このみ園」の近年の動向(平成~)  
    平成に入り、三代目久吉の妻 静子は二代目久吉の遺言通り本家を一つにするため、十三代 許斐圓児(五代目久吉)に本家東棟と小売部の譲渡を決めます。本家を継いだ圓児は、茶問屋創業以来(江戸末期)の建築物である店舗を福岡市のコーディネーター田中瞳氏の発案により、ギャラリーを併設した町家としてリノベーションします。八女茶に関わる資料や代々の品を展示し八女福島商人の歴史を伝える町家ギャラリーとして平成11年(1999年)春にオープンしました。

 平成24年(2012年)には、文化庁の伝統的建造物保存事業を利用し、戦前の店舗ファサード「日除け」を日本ではじめて完全復元しました。この事業は茶の産業遺産の権威である工学院大学客員研究員の二村悟博士から監修して頂き、日光を利用した当時の茶の審査場(拝見場)が百年前の光と共に甦りました。また「日除け」が当時の製茶問屋(茶商)の看板でもあった為、日本唯一のサインデザイン顕彰事業である第47回(2013年)SDA賞奨励賞を受賞しました。

 

 ◆継承される八女の伝統製法、炭火焙煎「焙炉(ホイロ)製法」とは
    日本の緑茶はほとんどが「蒸し製法」です。さらに、八女では伝統的な「焙炉(ホイロ)製法」が今もなお継承されております。焙炉とはお茶を揉む機材であり、構造の内面を赤粘土で固め、中央に木炭を使って熱を発生させます。上面は伝統工芸品である八女和紙を貼っており、その上面に蒸した茶をのせて丹念に手揉みします。遠赤外線で焙じられた緑茶は、渋みが少なく、濃厚な甘味と旨味があります。さらに茶の品評会などでは「ホイロ香」と呼ばれる、この製法で着く焙煎フレーバーが、現在でも珍重されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

◆近年の新しい製品化の取り組み、八女の国産和紅茶
    明治時代、政府の外貨獲得政策により“八女茶”は主に紅茶として製造され、ロシア、イギリス、アメリカ等に輸出されていました。第二次大戦後に開発された国産紅茶品種「紅ひかり」、「紅ふうき」を10年程前より八女で生産を始め、当時の製法で復刻商品化しています。癒し成分「GABA」を多く含んでおり、ふんわりとやわらかな甘味が特長です。

 

 また2013年10月に、ロシア語のラベルが貼られた明治時代のものとみられる紅茶箱が見つかりました。浮世絵風のデザインが特徴で、専門家によると、輸出先として新たにロシア市場を開拓しようとしたことが分かる貴重な史料で、こうした紅茶箱が日本で発見されたのは初めてだそうです。

 


◆茶道を通して感じる「和ごころと真ごころ」

「一煎(いっせん)どうぞ」。

心をこめて淹れたお茶を差し出されたらどんな気持ちになるでしょう。
ペットボトルで手軽にもいいけれど、急須でいれるともっと美味しく感じます。

 その理由は、日本の茶文化である茶道を肌で感じ、ゆるりとした特別な時間を楽しむ「和ごころ」にあるのでしょうか。
 そして相手を想い淹れたお茶を受けとることで、「真ごころ」淹りの隠し味を堪能できるからより美味しく感じるのではないでしょうか。

 

 

 

 

    古代僧侶により中国から伝わった喫茶の風習は、長い時間をかけて日本独自の茶道へと形式を整えていきました。また“日常茶飯事”の言葉どおり、日本人にとって一服のひとときは日々の生活に定着しています。お茶とともに歩んできた歴史は古く、素朴な色合いが茶の緑色を鮮やかにひきたて、四季の彩りを写し取る和菓子が添えられて、その調和の色は見た目にも味わい深いものです。

 

 これから、特に温かい日本茶がおいしい季節です。普段は急須を使わない人も、この機会に急須でお茶を入れて、じっくりと味わってみてください。

 

 

◆最後に
 全国茶品評会「玉露の部」で12年連続、農林水産大臣賞(1位)を受賞している“八女茶”。豊かな自然と人が調和してこそ、最高品質の茶葉ができるのだと今回の取材を通して深く実感いたしました。

 九州を訪れた際は是非、福岡県筑後地方に立ち寄り、本場“八女茶”で和ごころを感じ、真ごころの籠もった“おもてなし”を体験しにきていただきたいと思います。

 皆様のお越しを心よりお待ちしております。

 

【温故知新】

 

 

 

 

 

 

 

 

取材協力店
<八女茶の名付け親 許斐本家このみ園>
  http://www.konomien.jp/
【住  所】〒834-0031 福岡県八女市本町126
【電話番号】0120-72-0201
【営業時間】9:00~18:00